「姫原遺跡3次調査を発掘調査しました」

投稿者| hajiki in 発掘調査・試掘調査, 遺跡紹介 | コメントを残す

 令和2年5月7日~6月19日の間、市内姫原町にある姫原遺跡3次調査を実施し、弥生時代~古墳時代の集落跡が確認されました。遺構は、竪穴建物跡2棟・土坑7基、溝3条、柱穴69基がみつかり、遺物は、弥生土器・土師器・須恵器・陶磁器・石器・銅鏃・鉄製品などが出土しました。なかでも竪穴建物跡のうち1棟は、古墳時代後期のもので、建物内に煮炊きに使うカマド施設が備えられていたことがわかりました。

遺構を完掘した状況(西方向から撮影)

竪穴建物内のカマド施設跡(西方向から撮影)

 

財団の事務職員を募集しています

投稿者| hajiki in お知らせ | コメントを残す
事務職員を募集しています

公益財団法人松山市文化・スポーツ振興財団では、職員採用試験(事務職)の実施を予定しています。
※発掘調査員や学芸員(専門職)の募集ではありません。

 

〔試験区分〕  
 事務職 R
 
〔採用予定人数〕
 1人程度
 
〔勤務場所等〕
 松山市総合コミュニティセンターその他本財団が管理運営する松山市の公共施設等に配属され、関連業務に従事する。

 

★今年度から、民間企業等が活用する基礎能力試験(SPI3)を導入(教養・専門試験の廃止)
 民間企業を視野に入れて就職活動している方や転職を考えている方も受験しやすくなりました。

【申込受付期間】 7月28日(火)~8月14日(金)(郵送可)

【第1次試験日】 9月20日(日)

【採用予定】   事務職 1名程度

【受験資格】   昭和62年4月2日から平成11年4月1日までに生まれた方

★実施要領や申込書は、ホームページからダウンロードできますので、是非ご覧ください。

https://www.cul-spo.or.jp/zaidan_news/ziishiyouryou-r2/

 

松山市指定有形文化財 掩体壕の確認調査を実施しました

投稿者| doguu in 文化財, 発掘調査・試掘調査, 遺跡紹介 | コメントを残す

 掩体壕は、太平洋戦争末期に造られた航空機の格納庫です。垣生・南吉田地区に63基造られましたが、現在は3基しか残っていません。このうち1基が平成30年に松山市の指定有形文化財に登録されました。今回の調査は、掩体壕の整備工事及びその許可に先立って、掩体壕の保存に及ぼす影響を事前に把握するために令和2年6月15日~6月26日の間、確認調査を実施しました。指定された掩体壕は、主翼格納部の前部アーチと尾翼格納部の後部アーチの大小二つのかまぼこ型アーチを合わせた形態となっています。
 調査の結果、掩体壕の前部アーチの外側と内側に排水施設である暗渠を確認しました。外側には前部アーチの基礎部に敷かれた川原石が基礎下50㎝、基礎部から外側1mまでに敷かれ、暗渠として掩体壕入口の排水の機能を果たしていることが分かりました。前部アーチ内では、薄く川原石が敷かれた溝状の暗渠5条が見つかりました。暗渠は前部アーチの中心に1条と、その両側に2条ずつを2.9mの間隔で平行に並べています。規模は幅50㎝~60㎝、深さ20㎝、長さ5.80mを測ります。これらの暗渠は掩体壕入口の基礎下の河原石に接続されていることから、掩体壕内の排水を担っていると考えられます。暗渠の発見は『昭和19年築城施設教範草案』第二編航空基地施設、第二章陸上航空基地、第七節飛行機置場、第九十四のなかに「掩体内の掘開部は適当なる排水方法を講ずるを要とす」とあり、これを検証するものとなりました。

 

 

常滑焼・渥美焼のこと(その2)

投稿者| sekifu in 出土物整理 | コメントを残す

 前回は常滑焼・渥美焼の特徴や歴史についてお話しましたが、今回は北条河野地区別府遺跡から出土したものについて書きたいと思います。

 出土したのは小さな破片ばかりで20点以上はありますが、焼き物の特徴をとらえて図や写真として皆さんに見ていただけるのは10点に満たないという状態です。

 その中で口縁(口の部分)の破片は5点です。全て前回に掲載した写真の大甕と同じで、外に大きく反って、先端は丸く、そのすぐ内側には窪んだ溝状の線が廻っています。このような特徴を持つのは、12世紀後半(平安時代末~鎌倉時代初め頃)のもので、それより新しくなると先端が上下に徐々に広がって、「T」を横に倒したような断面になります。このことから、本遺跡で出土したものは12世紀後半に作られたことが分かります。

 常滑焼・渥美焼の形はインターネットでも写真を見ることができますので、ここではあまり細かいことは触れません。

 ここからは、常滑焼や渥美焼の胴部に付けられた押印(おういん)文についてお話したいと思います。押印文は甕・壺のような大型のものを中心に、胴体部分に付けられるスタンプ状の文様です。初めは木の板に筋状や格子状の模様を彫り、甕や壺を作る時に粘土を叩き締める目的で胴体部分のほぼ全体を連続的に叩いていたようですが、だんだんと花や木の葉、車輪といった意匠を持つ模様で、胴体の1~数か所だけに押し付けるというものも現れるようです。ここに掲載した本遺跡出土のものは、筋状に円弧状のものが合わさった模様が付けられています。押印文の研究者によると、この意匠が使用されるのは12世紀中頃から後半が大半で、13世紀まで残ることはほとんどないと記されており、上に書いた口縁部の時期とほぼ一致しています。

 これらのことから、本遺跡で出土した常滑焼と渥美焼の甕は12世紀後半頃に作られ、伊予の風早郡(北条地区)にやって来たことが分かります。運ばれた経緯や経路まではわかりませんが…

 ちなみに下の写真の左側が常滑焼、右側が渥美焼のものです。写真ではわかりにくいと思いますが、押印文の研究者にうかがうと、まず器壁の厚さで分けることが可能(左側が約6㎜、右側が約11㎜)で、さらに押印文の明瞭さの違いなども考慮することで見分けることができるようです。(S)

常滑焼・渥美焼の押印文

 

常滑焼・渥美焼の押印文拓影

 

常滑焼・渥美焼のこと(その1)

投稿者| sekifu in 出土物整理 | コメントを残す

 みなさんは「常滑(とこなめ)焼・渥美(あつみ)焼」ってご存知ですか?
 ”よく知っている”、”名前だけは聞いたことがある”、”初めて耳にした”など、いろいろな方がいらっしゃると思います。
 今回はその常滑焼・渥美焼について少しお話をさせていただきます。なぜかと言うと、一昨年の冬に調査をした北条河野地区の別府遺跡で出土した土器や陶磁器の中にわずかですが混じっていて、今それらの整理をしているので、これまでに勉強したことや解ったことについて、みなさんにお伝えしたいと思ったからです。

 まず、常滑焼・渥美焼がどのような焼物かということについて少しお話します。これらは備前焼や信楽焼などと同じ、「炻器(せっき)」「焼締め」などと呼ばれる陶器です。表面の色は鉄分を多く含むことから褐色で、本遺跡から出土したものの中にも、黒っぽい鉄分が斑点のようにたくさん浮き出たものが見受けられます。

 常滑焼は現在の愛知県の知多半島で、渥美焼は東側の渥美半島で焼かれていました。地元では知多半島で焼かれたものを「常滑焼」、渥美半島のものを「渥美焼」と呼んでいます。

 常滑焼・渥美焼の歴史を見ると、尾張地方で始まった「猿投(さなげ)窯」が元になっています。猿投窯では、8世紀代に燃料の薪などの灰が溶けて降りかかる自然の釉(うわぐすり)を人為的にかかりやすくする方法が編み出され、原始的な灰釉陶器という焼物を作り始めました。9世紀の初めには焼く前に釉を刷毛で塗るという方法が編み出され、9世紀半ば以降には岐阜県や静岡県でも同様の窯での生産が始まります。10世紀に入ると、猿投窯そのものが周辺に拡散をはじめ、瀬戸物として有名な「瀬戸焼」の源流となる窯もその頃に築かれました。

 その流れのひとつとして、知多半島や渥美半島でも陶器の生産が始まりました。常滑焼は知多半島に展開し、近世以降も生産され続けています。このうち12世紀初め(平安時代終わり頃)から16世紀に生産されたものを「中世常滑窯」と呼ぶこともあります。渥美焼の生産が開始されたのは常滑焼とほぼ同じですが、13世紀末(鎌倉時代)には途絶えてしまいます。

 常滑焼と渥美焼は一見同じように見えますが、細かく見ると形や厚みのほか模様の付け方なども少し違っているようで、専門に研究している方に見せると、小さな破片でも見分けていただけます。

 渥美焼は早い時期に生産が途絶えてしまいますが、常滑焼は17世紀以降、窯の構造や燃料、生産する品物の種類などに変化を加えながらも、現在まで続いています。

 

常滑焼の甕

  この写真は常滑焼の甕で、愛知県陶磁美術館のご協力と許可を得て掲載しています。

 

 

衣山内宮田遺跡の発掘調査

投稿者| sekifu in 発掘調査・試掘調査 | コメントを残す

 令和元年9月から1か月間、調査を行いました。調査面積は約280㎡です。調査範囲が狭かったため、遺跡の全体像を確認することはできませんでしたが弥生時代から古墳時代の竪穴建物跡や柱穴、溝跡などが見つかりました。
 竪穴建物跡はのちの時代に削り取られたり、調査範囲の外にも延びていたりして、全体を掘り出すことはできませんでしたが、少なくとも一辺5m以上の四角い建物であることや出土した土器から古墳時代初め頃のものであることが分かりました。
 柱穴は口の部分の直径が20㎝前後の小さいものから、80㎝を超える大きなものまであり、それぞれに見合った建物があったようです。”建物があったよう“という書き方をしたのは、調査範囲の狭さから、全体の規模がほとんど分からなかったからです。
 でも将来、隣の土地を含めてもっと広い範囲を調査することがあれば、きっといろんなことが分かってくると思います。
 この遺跡の周囲には、もうなくなってしまいましたが、永塚古墳という長さ約28mの大きさの前方後円墳をはじめとする多くの古墳があります。さらに弥生時代から近世にかけての集落跡、古代の瓦窯跡など、長い間私たちの祖先がが生活し、物を作り、そして葬られるという営みの跡がたくさん見つかっています。

発掘風景(西より)

完掘全景写真(東より)

南江戸上沖遺跡の遺物

投稿者| kidai in 出土物整理, 報告書作成, 未分類 | コメントを残す

 南江戸上沖遺跡は平成27年9月~平成28年7月まで発掘調査(屋外調査)を行いました。

区画溝

南江戸上沖遺跡からは、鎌倉時代の建物を区画する溝が見つかっています。現在は、報告書作成のための整理作業(屋内整理)を行っています。その中で見つかった遺物について紹介いたします。

石鍋

石鍋の断面

 今回は、井戸から見つかった石製の鍋です。口頸部に釜のように鍔状の突帯を巡らします。

石鍋・いしなべ(滑石製)復元口径28.6㎝、厚みは1.4㎝を測る。

 石鍋の産地は、長崎県西彼杵(にしそのぎ)半島で製作されたものが多く、製作所の規模も最大で、製作所跡が24カ所で確認されています。今回の出土品も長崎県産と考えられます。滑石は硬度1の軟質の鉱物であり、加工がしやすく保温性に富む特徴があります。滑石製の石鍋は、平安時代末から中世に西日本に、広く流通した厨房具(ちゅうぼうぐ)です。

木製品『杓』

投稿者| doguu in 出土物整理, 文化財, 発掘調査・試掘調査 | コメントを残す

 令和2年2月に祝谷大地ヶ田遺跡7次調査で出土した木製品『杓』の保存処理が完了しましたので、今回はこの『杓』と他の遺跡から出土した『杓』2点も併せて紹介します。

写真① 出土遺跡 祝谷大地ヶ田遺跡7次調査 溝出土
            所属時期 弥生時代前期
            大きさ 長さ 5.1㎝  幅 8.2㎝ 高さ 29.3㎝
            特  徴 把手の部分が丁寧に磨かれ加工されています。一木造り。                                 

写真② 出土遺跡  釜ノ口遺跡9次調査 溝出土
            所属時期 弥生時代後期
            大きさ  長さ 49.0㎝  幅 16.0㎝ 高さ 10.5㎝ 
            特  徴 裏面には首部や柄部が表現されています。一木造り。

写真③ 出土遺跡  釜ノ口遺跡11次調査 自然流路出土
            所属時期 弥生時代中期後葉~古墳時代中期
            大きさ  長さ 29.4㎝  幅 16.4㎝ 高さ 16.2㎝
            特  徴 完形品。一木造り。

写真①祝谷大地ヶ田遺跡7次調査

写真②釜ノ口遺跡9次調査

写真③釜ノ口遺跡11次調査

 

東垣生八反地(ひがしはぶはったんじ)遺跡6次調査で発掘調査を実施中です。

投稿者| doguu in 発掘調査・試掘調査, 遺跡紹介 | コメントを残す

 松山市埋蔵文化財センターは、令和2年2月3日より松山市東垣生町内にて(仮称)松山市新垣生学校給食共同調理場整備事業に伴う埋蔵文化財の発掘調査を実施しています。

 調査地周辺では、平成26年度から28年度にかけて松山外環状道路(空港線)整備に伴う発掘調査が行われており、弥生時代から中世、室町時代までの集落遺構や生産遺構のほかに土器や石器、鉄製品等が発見されています。とりわけ、生産遺構では水田址が検出され、数千個に及ぶ人間や牛の足跡が見つかり、鎌倉時代後半から室町時代に存在した水田址であることが調査の結果、判明しました。また、集落遺構では弥生時代や古墳時代の竪穴建物をはじめ、平安時代から鎌倉時代の建物址や溝のほかに、井戸址や土壙墓(どこうぼ)などが発見されています。

調査風景(西方向から撮影)

 2月21日現在、本調査では水田址が検出されており、畦畔や足跡を確認しました。調査対象面積は約2,000平方メートルで、調査の終了は令和2年7月末頃を予定しています。今後の予定は、検出した遺構の掘り下げ後、測量及び写真撮影などの記録保存を行います。なお、7月後半には一般市民の方を対象とした現地説明会を開催する予定です。これからも、調査の進捗状況を随時、報告してまいります。

水田面検出状況 (西方向から撮影)

 

下難波腰折(しもなんばこしおれ)遺跡1次調査で古墳が4基みつかりました。

投稿者| doguu in 発掘調査・試掘調査, 遺跡紹介 | コメントを残す

 調査地は腰折山南麓の尾根上、標高40m~50mにあります。北条平野では山麓尾根上や独立丘陵上に古墳が多数分布しています。特に古墳時代後期(6世紀)の古墳が群集する県内でも有数の古墳地帯であり、調査地はその一つにあたります。

 今回の調査(令和元年10月15日~令和2年1月31日)では、6世紀~7世紀にかけて築造された古墳4基(腰折1号墳~4号墳)を確認しました。いずれも墳丘と石室上部は消滅していましたが、石室の一部が残っていました。1号墳~3号墳は横穴式石室、4号墳は小さな竪穴式石室で、石室内からは副葬品の土器・鉄製品・装飾品などが出土しました。このうち1号墳(長さ3.1m・幅1.4m~1.8m・残高0.5m)からは須恵器、鉄斧・鎌・鑿・刀子・鉄鏃・轡などの鉄製品、耳環・管玉・切子玉・ガラス玉・臼玉・平玉などの装飾品が出土し、中でも翡翠製勾玉、碧玉製平玉、琥珀製平玉は県内でも出土例の少ない貴重な資料となりました。また、4号墳では木炭床を検出しました。木炭床は全国的にも珍しく、松山市では瀬戸風峠4号墳に次いで2例目となるものです。