伊予の豪族“河野氏”のこと(その3)

投稿者: sekifu in 出土物整理 | コメントを残す

 前回は平成29年度の調査で出土した遺物の時期と、その頃に姿を現し始めた河野氏、とくに通清(みちきよ)、通信(みちのぶ)親子の登場までのお話しをしました。

 今回は二人が活躍した源平合戦のころに焦点を当ててみたいと思います。

 前回、通清の誕生物語りは史実という点から見て信憑性が低いと書きましたが、そのことに原因があるのか、生年が不明です。通信は保元元年(1156)に生まれたといわれていますので、父親である通清は12世紀前半に生まれたとみられます。

 この二人が史料に盛んに登場しはじめるのは、治承年間(1777~1782年)からです。

 その頃は平氏が清盛を中心に権勢を誇っていました。西日本各地の豪族たちの多くは、そのような平氏とのつながりを強めていました。

 しかし治承4(1180)年、以仁王から平氏追討の令旨(れいし:命令を書き記した文書)が発せられ、源頼朝が伊豆で挙兵したのをきっかけに、翌年には通清、通信親子も平氏に背き、高縄山城に籠って戦いましたが、この時に通清は討ち死してしまいます。

 通信はその後も源氏方として戦い、平氏が滅亡した屋島、壇ノ浦の戦いでは海戦の中核として活躍し、頼朝の奥州合戦(奥州藤原氏との戦い)に従軍するなどして、鎌倉幕府に重く用いられるようになりました。

 その後、承久の乱(1221年)で後鳥羽上皇方について、鎌倉幕府方に敗れました。このことで奥州平泉に配流(流罪)となり、翌々年この地で没したといわれています。

 河野氏は承久の乱で幕府方についた子の通久や出家した通広によって受け継がれ、元寇の弘安の役で勇名をはせた通有(通信の曾孫)や道後に湯築城を築いた通盛(通有の子)、踊念仏で知られる「時宗」をひらいた一遍上人(通信の孫)などを輩出しています。

 一遍上人は弘安三(1280)年に、奥州(現、岩手県北上市)に葬られている祖父通信の墓に詣でたことが伝えられています。

 このように見てくると通清、通信は、山もあり谷もありながら、その後もずっと続いた河野氏の礎を築いた親子なのかもしれません。

 そして約800年の後、彼らが使っていたかもしれないたくさんの土器や陶磁器に私たちが巡り合えたのは、必然なのか?偶然なのか?なんてことをいろいろ考えていると、とても不思議な出会いに思えてきます。

河野通信の墓所“ひじり塚”

(中央奥の樹木下のマウンド状になったところ)

*この写真は、岩手県北上市教育委員会より提供いただきました

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