天目茶碗のこと2

投稿者: sekifu in 未分類 | コメントを残す

日本で作られ、松山の地で出土した天目茶碗

 前回は中国の天目茶碗について書きましたが、日本ではどうだったのでしょう。ここでは愛知・岐阜周辺で作られ、松山の片隅で出土した天目茶碗についてお話します。

 日本では愛知県瀬戸市周辺で14世紀初め頃、中国の天目茶碗を模倣して生産が始まります。その頃は半地下式の「窖窯(あながま)」で焼いていて、天目茶碗に限らず、そこで焼かれたものを「古瀬戸」と呼びます。15世紀末になると、窖窯よりも大きく、そして大量に安定して焼ける「大窯(おおがま)」が登場します。それがおおよそ16世紀末まで続き、17世紀初めには「連房式登窯(れんぼうしきのぼりがま)」というさらに大きな窯ができます。

 天目茶碗は連房式登窯の時代になっても焼かれますが、今回松末栄松遺跡で出土したものは、大窯の初期に焼かれたもので、研究者の位置づけでは1480~1530年頃にあたります。

 今回の天目茶碗は、調査区南西部の台地から低地への落ち際に造られた直径3.0~3.7m、深さ約50㎝の穴の底から出土しました。これがどのような事情で置かれたのか、もしくは廃棄されたのかといったことははっきりしません。そしてそれがいつ頃かということも、正確なことは言えませんが、焼かれてすぐに手に入ったものが、その直後に穴底に入ったのだとすれば、15世紀の終りから16世紀初め頃ということが言えますし、貴重なお茶道具として一定期間使用した後だとすれば、16世紀代かそれより後に埋められたということが言えるかもしれません。

 当時お茶は貴重なもので、一般の庶民に喫茶の風習があったとは考えにくいことや松末栄松遺跡周辺が河野氏の家臣である「松末氏」の館跡があった場所といわれていることから、近くに彼らの屋敷地があったのではないかということも想像できますね。

 松山平野内で完全、もしくはほぼ完全な形のものはこれが3点目で、とてもめずらしい出土品です。松山市考古館では、今回の調査で出土した土器や古いお金とともに、11月29日までロビーで展示していますので、ぜひご来館ください。         (S)

            松山市 松末栄松遺跡出土の天目茶碗

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