下難波腰折(しもなんばこしおれ)遺跡1次調査で古墳が4基みつかりました。

投稿者| doguu in 発掘調査・試掘調査, 遺跡紹介 | コメントを残す

 調査地は腰折山南麓の尾根上、標高40m~50mにあります。北条平野では山麓尾根上や独立丘陵上に古墳が多数分布しています。特に古墳時代後期(6世紀)の古墳が群集する県内でも有数の古墳地帯であり、調査地はその一つにあたります。

 今回の調査(令和元年10月15日~令和2年1月31日)では、6世紀~7世紀にかけて築造された古墳4基(腰折1号墳~4号墳)を確認しました。いずれも墳丘と石室上部は消滅していましたが、石室の一部が残っていました。1号墳~3号墳は横穴式石室、4号墳は小さな竪穴式石室で、石室内からは副葬品の土器・鉄製品・装飾品などが出土しました。このうち1号墳(長さ3.1m・幅1.4m~1.8m・残高0.5m)からは須恵器、鉄斧・鎌・鑿・刀子・鉄鏃・轡などの鉄製品、耳環・管玉・切子玉・ガラス玉・臼玉・平玉などの装飾品が出土し、中でも翡翠製勾玉、碧玉製平玉、琥珀製平玉は県内でも出土例の少ない貴重な資料となりました。また、4号墳では木炭床を検出しました。木炭床は全国的にも珍しく、松山市では瀬戸風峠4号墳に次いで2例目となるものです。

 

 

 

試掘調査で出土した土器

投稿者| doutaku in 出土物整理, 発掘調査・試掘調査 | コメントを残す
試掘調査

埋蔵文化財センターでは、毎日のように市内のどこかに出かけて、試掘調査というものを行っています。
これは、埋蔵文化財包蔵地というエリア内で、建物が建てられるようなときに行うもので、地中をトレンチと呼ばれる長方形の箱型に穴を掘って、その場所に遺跡があるかないかを調べる調査です。

調査で出土した土器

このような試掘調査では、あまり大きな土器や珍しい完形品(欠けていない完全な形の土器)などはほとんどありません。大抵は手のひらに乗るぐらいの小さな破片の場合が多いのです。しかし、たまには大量に土器が投棄された状態を見つけたり、出土例が少ない貴重な遺物が出土したりします。ただし、本格的な発掘調査ではないので、出土の記録は残りますが、あまり表に出ることが少ない遺物たちです。

今回は、大量でも貴重でもなく、試掘調査で出土したちょっと珍しい遺物をご紹介します。

遺物4個体

土師器4個体

松山市内の南久米町で行った試掘で出土した14~15世紀の土師器の坏です。写真下の三つは土師器の坏ですね。底部が糸切りとヘラで切り離されてます。

そして下の写真がやや大きい器です。

これは口径14.8cm、器の高さ5cm、足の高さは1.5cmあります。
器の底部には三っつの三角脚が張り付いてます。
文様は写真でもわかりますが、外側に荒い線刻の沈線が4条巡って、線刻の間に円形の陰刻があり、その周りには半円形状の刺突列点が施されてます。
なんか菊の花のようにも見えます。

実測図

実測図

同時に出土した土師器からも時代は14~15世紀のものと思われます。さて、この土器はいったい何なんでしょう?
3脚付きの坏?、鉢?、皿?

関係者からは『香炉』説が有望で、ただその後二年以上たちますが、いまだ同じものには出会えておりません。珍しい出土例だと思います。

また、機会がありましたらこのような、試掘調査であったちょっと気なる話をします。

松山城三之丸跡で北御門西袖の城外側石垣と築城期の道路面が見つかりました。

投稿者| hajiki in 発掘調査・試掘調査 | コメントを残す

 松山城三之丸跡22次調査の確認調査を令和元年11月末から12月末の間実施しました。
 今回の確認調査は、史跡松山城跡の三之丸跡において、北御門西袖の石垣の確認を主目的として実施したものです。わずかに土塁の斜面に露出していた石材の位置と古絵図を参考にして、北御門西袖に調査区を設定しました。

確認された石垣と道路面

築城期の道路面

石の加工痕「矢穴」

 

〔調査でわかったこと〕 
 調査の結果、北御門西袖の城外側を構成する石垣と築城期の道路面を検出することができました。石垣に使用された石材の中には、一辺長が1.3m四方に達する大型のものが含まれています。東御門の石材と比べて全般的に大きいことから、三之丸御殿に隣接するこの門が、城の正門にあたる大手門であった可能性が高くなりました。
 なお、今回の調査区内では、礎石など北御門を構成する遺構は検出されていません。石垣の位置を参考にすると、北御門は調査区に接する公衆トイレの真下から道路を挟んで東の旧国立がんセンター跡地の西端にかけて埋もれているものとみられます。

 

久米才歩行(くめさいかち)遺跡8次調査。

投稿者| doguu in 発掘調査・試掘調査, 遺跡紹介 | コメントを残す

 久米才歩行遺跡はこれまでに7次の調査が行われ弥生時代から中世までの集落に関係する遺構や遺物がたくさん見つかっています。調査は7月16日(火)~8月15日までの間に行いました。調査面積は約90㎡です。

 見つかった遺構は、弥生時代中期初頭(約2100年前ごろ)に埋まったと考えられる自然流路1条のほか、古代末~中世にかけての土坑1基、溝1条が見つかりました。出土した遺物は少ないですが、縄文土器、弥生土器、土師器、須恵器のほか石包丁や石斧などが出土しました。

 調査地の西約100mには久米才歩行遺跡7次調査地があり、弥生時代前期末~中期初頭の竪穴建物が見つかっています。今回の調査でも同じ時期の自然流路が見つかり、土器や石器などが出土したことから、調査地周辺にも集落域が広がっていることがわかりました。

伊予の豪族“河野氏”のこと(その3)

投稿者| sekifu in 出土物整理 | コメントを残す

 前回は平成29年度の調査で出土した遺物の時期と、その頃に姿を現し始めた河野氏、とくに通清(みちきよ)、通信(みちのぶ)親子の登場までのお話しをしました。

 今回は二人が活躍した源平合戦のころに焦点を当ててみたいと思います。

 前回、通清の誕生物語りは史実という点から見て信憑性が低いと書きましたが、そのことに原因があるのか、生年が不明です。通信は保元元年(1156)に生まれたといわれていますので、父親である通清は12世紀前半に生まれたとみられます。

 この二人が史料に盛んに登場しはじめるのは、治承年間(1777~1782年)からです。

 その頃は平氏が清盛を中心に権勢を誇っていました。西日本各地の豪族たちの多くは、そのような平氏とのつながりを強めていました。

 しかし治承4(1180)年、以仁王から平氏追討の令旨(れいし:命令を書き記した文書)が発せられ、源頼朝が伊豆で挙兵したのをきっかけに、翌年には通清、通信親子も平氏に背き、高縄山城に籠って戦いましたが、この時に通清は討ち死してしまいます。

 通信はその後も源氏方として戦い、平氏が滅亡した屋島、壇ノ浦の戦いでは海戦の中核として活躍し、頼朝の奥州合戦(奥州藤原氏との戦い)に従軍するなどして、鎌倉幕府に重く用いられるようになりました。

 その後、承久の乱(1221年)で後鳥羽上皇方について、鎌倉幕府方に敗れました。このことで奥州平泉に配流(流罪)となり、翌々年この地で没したといわれています。

 河野氏は承久の乱で幕府方についた子の通久や出家した通広によって受け継がれ、元寇の弘安の役で勇名をはせた通有(通信の曾孫)や道後に湯築城を築いた通盛(通有の子)、踊念仏で知られる「時宗」をひらいた一遍上人(通信の孫)などを輩出しています。

 一遍上人は弘安三(1280)年に、奥州(現、岩手県北上市)に葬られている祖父通信の墓に詣でたことが伝えられています。

 このように見てくると通清、通信は、山もあり谷もありながら、その後もずっと続いた河野氏の礎を築いた親子なのかもしれません。

 そして約800年の後、彼らが使っていたかもしれないたくさんの土器や陶磁器に私たちが巡り合えたのは、必然なのか?偶然なのか?なんてことをいろいろ考えていると、とても不思議な出会いに思えてきます。

河野通信の墓所“ひじり塚”

(中央奥の樹木下のマウンド状になったところ)

*この写真は、岩手県北上市教育委員会より提供いただきました

伊予の豪族“河野氏”のこと(その2)

投稿者| sekifu in 出土物整理 | コメントを残す

 前回、風早郡の場所について簡単にお話ししましたので、今回は調査を行った別府遺跡のことや、遺跡がある河野地区、河野氏の歴史について触れてみたいと思います。

 調査した中で、現時点では時代のはっきりしない遺構などもありますが、土器や陶磁器といった、時期を特定できる出土遺物もあります。

 今回の調査で出土した遺物のほとんどは平安時代の終わりから鎌倉時代が始まったばかり(12世紀前半~末)のころのものです。

 地元産の土器や国内産の陶器と一緒に、当時としては手に入りにくい中国産の青磁・白磁といった磁器もたくさん出土しました。

 都から遠く離れた風早郡に、どうしてこんなに貴重な磁器がもたらされたのでしょう。

 それは、この地が中世伊予の豪族“河野氏”の本貫地(ほんがんち:発祥の地)だということです。

 河野氏は古代から続く越智氏の流れをくむ一族だと言われ、史料の中でも時々、「河野○○」ではなく「越智○○」といった名前で出てくる人物もいます。しかし現時点で越智氏とのつながりを直接示す史料は無く、実際にははっきりしないようです。

 12世紀代の河野氏というと、河野通清(みちきよ)、通信(みちのぶ)親子の時代になります。

 通清の父親は親清(ちかきよ)といい、源氏嫡流(ちゃくりゅう:本家を継ぐ家系)の四男で、跡継ぎがいない河野家が養子に迎えたといわれています。

 この親清にも子供がなく、妻が神社に詣でると、守り神である大蛇と通じて通清が生まれたといわれています。何か実際に起こったことの比喩(ひゆ:たとえ)かもしれませんが、現実の出来事ではありません。

 このような記事や物語りなどについては、他の史料を使って証明できなかったり、非現実的であったりすることなどから、歴史的事実としての信頼性に欠けるものと言わざるを得ません。

 ただ、通清、通信の時代、とりわけ鎌倉幕府成立の前夜以降になると、河野氏以外の立場で書かれた史料と突き合わせのできる事跡(じせき:出来事)も多くあり、それらについては信憑性が高いと考えてもいいでしょう。

 これらのことから、今回の調査で出土した遺物は通清の若いころから晩年(通信の幼少期から壮年期)にかけてのものが中心なので、歴史の中でかなり輪郭がはっきりし始めた豪族“河野氏”に関わりの深いものと言えるでしょう。

             河野通清供養塔

 この供養塔は、風早郡と和気郡の境の斎灘に張り出す尾根先端付近にあり、敷地内には「郡境」、「関所跡」といった石柱も立っています。

 

伊予の豪族“河野氏”のこと(その1)

投稿者| sekifu in 未分類 | コメントを残す

 当センターが平成29・30年度にわたり松山市北条河野地区で遺跡発掘調査を行ってきたことは、現地説明会やホームページでお伝えしてきました。

 これからその報告書作りが始まりますが、勉強したことや分かってきたことを、少しずつ支障のない範囲でお知らせしていこうと思っています。

 まずは、松山市北条地域について見てみたいと思います。

 この地域は、昔は「風早郡」と呼ばれていて、かなり古くから史料には登場しますが、なぜ“風早”というのかはよくわかっていません。

 風が強いからという説もありますが、気象資料からは特別に強いということは言えないそうです。

 もっとも、夏場から秋・冬を通り越して春先まで調査をした経験から言いますと、特に冬場は海風もさることながら、高縄山から吹き降ろす風は確かに強かったです。そのあたりが松山平野とは少し違うように感じました。

 それはさておき、風早郡は周りを野間郡(北)、越智郡(西)、温泉郡(南東)、和気郡(南)に囲まれ、さらに風早郡内は5つの郷に分かれていました。

 郷は南から粟井郷・河野郷・高田郷・難波郷・那賀郷と呼ばれていました。このうちの粟井郷・河野郷・難波郷は、現在でも地区の名前として残っていますので、みなさんお分りかと思います。

 高田郷は河野郷と難波郷に挟まれたところで、ほぼ現在の正岡地区にあたり、那賀郷は立岩川を少し遡った山間部の旧立岩村辺りになります。

 別府遺跡がある河野郷は、大きくは河野川と高山川によって作られた、高縄山西麓の中位・低位の砂礫台地とそれを開析して斎灘に流れ下る扇状地に分けることができます。

 調査は、まさに高山川による扇状地が始まろうとする扇頂部付近で行いました。ここは、尾根状に残った低位砂礫台地の南側裾部にあたる場所でもあります。

 その結果、後世の高山川の氾濫による破壊を免れた部分から、貴重な遺構や遺物を見つけることができました。

 そしてそれらは、次回以降お話しする予定の河野氏と深い関係を持つものだと考えています。

             西より高縄山を仰ぐ

松山市埋蔵文化財調査年報30を刊行しました

投稿者| takatsuki in 出土物整理, 報告書作成, 遺跡紹介 | コメントを残す

 平成29年度に発掘調査を実施した15遺跡の成果報告のほか、出土品の整理・保存処理、普及啓発活動などをまとめた松山市埋蔵文化財調査年報30(29年度)を刊行しました。是非、考古館に見にきてくださいね。 

 

 

 

 

 

 

 

 

別府遺跡4次調査で出土した石垣のこと

投稿者| sekifu in 発掘調査・試掘調査, 遺跡紹介 | コメントを残す

 前回ご紹介した木樋に続いて、今回は石垣について少し詳しく説明したいと思います。

 出土したのは調査範囲の北側で、調査区の西端(にしはし)から東端(ひがしはし)までずっと続いていて、約33.8m分を発掘しました。両端とも調査範囲の外に延(の)びているので、実際はもっと続きます。

 石垣の根石(一番下の石)は地面に掘った小溝の中に敷き並べ、その上に傾斜角度約60°でこぶし大から30cmを超えるような自然石をうまく組み合わせながら4~10段ほど積み上げて築いています。高さは西端で74cm、東端は103cmです。

 自然石をそのまま積み上げる石垣を「野面(のづら)積み」と言います。この積み方は鎌倉時代終わり頃から始まり、江戸時代前半頃まで続いた方法で、とくに戦国時代の山城などに盛んに用いられました。

 しかし今回発掘した石垣が築かれた時代は、木樋以上に決め手になる土器などが出土していないので不明です。さらに何のために築かれたのかも、今のところ分かっていません。

 調査をしたのが溜(た)め池の中ということで、堤防の護岸ではないかという意見もありますが、木樋が出土した西側堤防や昨年度調査をした南側堤防の裾からは出土していないので、そう考えるのは少し難しい状況です。

 石垣が出土した北側堤防と西及び南側堤防の違いを見てみると、西・南側堤防は川を堰(せ)き止めて溜め池を作るために平地に新しく築いたものです。一方北側堤防は東西に延びる自然の尾根裾を利用したものです。この違いが石垣の性格を解明するための条件の一つになるのではないかと考えています。

別府遺跡4次調査出土の石垣全景(東より)

別府遺跡4次調査出土の石垣東端(南より)

別府遺跡4次調査で出土した木樋のこと

投稿者| sekifu in 発掘調査・試掘調査, 遺跡紹介 | コメントを残す

 「別府遺跡4次調査」で出土した木樋について少し詳しく説明したいと思います。

 木樋は導水のための施設ですが、今回の調査では一部の出土であったため、「何のために」、「どこから取水」して「どこに放水」するのかを解明することはできませんでした。

出土したのは調査範囲の南(みなみ)端(はし)で、北東から南西方向に設置してあり、わずかですが北東側が高くなっていて、南西に向かって流れていたものと推定できます。

木樋は現在の地面から約1m下に埋まっていました。長さ約7.2m分を掘り出しましたが、両端とも調査範囲の外に延びているので、実際はもっと長いものです。

 樋の直径(外径)は20~27cmです。作り方は丸太をかまぼこ状に半分に割って中を刳(く)りぬき、再び上下に合わせ、管(くだ)状にして使用しています。蓋(ふた)にしている上半分のほとんどは、その後に堆積した土の重みで潰(つぶ)れ、完全な形では残っていませんでしたが、南端のごく一部でかろうじて潰れていない部分を見つけることができました。途中2か所で木樋が切れていますが、わき水が多く、掘り出すのがやっとという状況だったので、それがつなぎ目だったのかどうか分かりませんでした。さらに上下の合わせ部分の水(みず)漏(も)れを防ぐための細工(さいく)なども確認することができず、その点が心残りでした。

 愛媛県の発掘調査では今治市の弥生時代の遺跡から1例出土しているのみで、今回は2例目ですが、木樋の中や接する部分から出土する土器などがなかったので、詳しい時期は分かりませんでした。ただ、木樋を覆(おお)っている土の中から鎌倉時代の土器片が出土しているので、だいたいその頃のものではないかと推定しています。

 このように、発掘調査ではなかなか目にすることがない木樋ですが、筆者は今まで愛知県の豊田市で古代の木樋と名古屋市で江戸時代から明治時代にかけての木樋を発掘しています。古代の木樋は池から水田に水を落とすために堤防の中に埋められていたもので、構造は別府遺跡のものとほぼ同じと推定できますが、残りは良好でした。名古屋市の木樋は角材を「コ」の字に刳(く)りぬいて蓋をしたものと4枚の板を貼りあわせたものがありました。貼りあわせ部にはシュロの皮を挟んで水漏れを塞いでいました。そして今回は中世の木樋ということで、それぞれ時代は違いますが、3度も関われるということはなかなかないので、幸運なことだと思っています。

別府遺跡4次調査出土木樋全景(南より)

別府遺跡4次調査出土木樋南端(東より)

愛知県豊田市寺部遺跡出土木樋(南より)

愛知県名古屋市樋の口町遺跡出土木樋(東より)